登校拒否は文化、文化事業登校拒否はその子にとって「文化」であり、それを共に経験していくことは一つの「文化事業」です。(学校に行っている子どもたちにとっても、いろいろな文化が豊かにあるといいですね) 「文化」ということを改めて考え、確認したくなって「広辞苑」を引いてみました。 文化:culture 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容を含む。「文明」とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神生活に関わるものを「文化」と呼び、技術的発展のニュアンスが強い「文明」と区別する。(cf 自然)・・・・・ 「広辞苑」より 更に図書館にあった「日本大百科事典」の「文化」より幾つかの抜き書きをしました。 ・・・精神的活動から直接的に生み出されたもの・・・ ・・・人間の営みを充実向上させるうえで新しい価値を創造するという・・・ ・・・あらゆる人間集団がそれぞれ持っている生活様式を広く総称して「文化」と呼び・・・・ ・・・個別文化はそれぞれの独自の価値を持っているから・・・ 以上のようなことが書かれてありました。分かるような、何かとり留めのないような感じです。「文化」というもの自体の持つ広がりとも言えましょうか。 そこで「文化」という言葉から連想されるものを思いつくままに挙げてみました。 社会・全体との対峙・対決、 問題提起、社会・全体への還元、 心理・精神現象、 創造性、独自性、普遍性、 新しい道を拓く(ひらく)、 そこを(それを)味わいながら生きる、(今、ここでの)自分を生きる、 生き方の再検討、 いろいろな出遇い、 自分との新たなる出遇い、 心の深まり、生き方の転換、再生、 共に味わう(家族・周囲)、 危険を避ける、安全反応(この二つはむしろ「本能」に近いか。それをどんな風に避けたか、どう反応したかの知的対応の部分が文化と重なるか)、 そして、 ゆとり、余力、余剰、余暇、閑暇 世間の常識、固定化した(大人の)常識・枠組みといったものから解き放たれ、自由になったところで創り出されるもの。 文化とはきっと何かそういったものなのです。そうなると「登校拒否」も「登校拒否を生きること」「登校拒否を共にいきること」もすっぽりその定義、そのニュアンスの中に収まります。 そうです、登校拒否はやはりその子にとって「文化」なのです。それを生きること、それを共に生きるということもまた一つの「文化」「文化事業」なのです。 しかし、実際には何故なかなかそう思えないのか、感じられないのか。つい萎縮し、遠慮勝ちになり、何か悪いことでもしているように感じられてしまうのか。それはすでに目の前に大人の常識、世間の常識といったものが大きく立ちふさがっているからです。それにすっかり取り囲まれているからです。 そして、こちらはいつも大多数者の前のほんの少数者、ほんの小さな集団です。時にはたった一人、孤立してという場合も多いのです。 少数者がその「生き方」「生き様」を自分でも「文化」として理解し、その姿を生きていくには、相当の心のエネルギーが必要になります。正しい豊かな情報が必要になります。共通の場に立つ仲間同士が手をつなぎ、情報交換することが必要になります。周囲のバックアップもまた必要です。 それぞれが、それぞれの姿を独自に創造的に生きていかなければなりません。「世間の常識の方が正しいのだ」「自分の方が、子どもの方が間違っているのだ」と誤って認識している限り、そこから自由にはなれません。無用な悩み、不当な苦しみを味わうことになります。 全てにわたって社会と厳しく対峙・対決するということでもないのでしょうが、この時こそ自分の独自性・創造性を大事にしなければなりません。「ただ生きている」「やり過ごしている」というだけではもったいない、一つの「文化」とはとても言い切れないものになってしまいます。 更に加えれば、文化にはやはり「ゆとり」といったものが必要です。「余力」「閑暇」「余暇」「余剰」といったものです。そこから初めて何かが始まります。広がり、深まっていきます。 いろいろな出遇いに恵まれます。そして何より自分との新たな出遇いが次々と起こります。内へ内へと、より求心的にどこまでもどこまでも深まっていきます。 同時に外へ外へと広がっていくのが文化でしょう。他の人とのつながり、他の文化とのつながり。そういった「つながり」の中で、文化は更に豊かになります。絶えず外へ広がろうとする豊かな懐の深さ、許容力、包容力が必要になります。 いろいろな文化があっていい。学校に行っている諸君にとっても是非豊かな文化が一人々々にあってほしい。そんな気持ちにもなっていきます。固い枠組みの中で「自分たちだけ」ということのないように。豊かさ、誇りと同時に「謙虚さ」もまた求められます。 登校拒否と言う一つの文化的体験が、そのまま全体、社会に還元されてこそ、登校拒否もまた一つの文句なしの文化、文化事業と言えるのではないでしょうか。 ニコニコと、独自性・創造性を大事にしながら、展望明るく、文化の香りを馥郁(ふくいく)とさせながら、登校拒否を生きていきましょう。 (「サポートプラン上伊那」も働き盛りの有能なお仲間が何人も集まって意欲的にいろいろな事業を展開しつつあります。そこから「こんなものを書いてみないか」といった指示・要請が出ます。それを受け応えていくのが新たな張り合いの一つに加わりました。「ハミングウオーカー」という素敵な名前の月刊冊子です。予想もしなかった、しかし当然ありうる展開で、楽しみながらやらせてもらっております。月刊「のぞみ」にも紹介させていただきます) |
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