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限度・限界
「限度・限界」ということを改めてとても大事なものとして感じております。親は子どものことで目一杯の頑張りをします。その頑張りは、最初のうちはかえって子どもにとって大きな迷惑だったり小さな迷惑だったりします。
しかし、時間の流れの中でいろいろに突き当たりつつ、叩かれつつ、親も変わっていきます。この時期、子どもが苦しんでいる真っ最中のとき、一番大事な我が子の為には親も一つ一つ何かを超えて変わっていきます。
より「受容」ができ、「温かい関心」が向けられるようになり、「共感的理解」ができるようになっていきます。嫌がること、苦痛となることを避け、やりたいこと、したい希望に出来るだけ添っていきたいと思えるようになります。
しかし、子どもも苦しみの中で時に親が応じきれないような要求を出すことがあります。ギリギリのところまで対応を続けているうちに、とうとうその「限度・限界」の壁に突き当たります。親はスーパーマンではありません。神様でも何でもない、ごく普通の人間です。「打ち出の小槌」も持っておりません。
しかし、苦しい真っ最中の諸君には、どこかで親は「打ち出の小槌」を持っていると錯覚しているところがあります。あるいは苦しい中で、無理にそう錯覚しているのかも知れません。
親もギリギリまでそれに応えようと努力しますが、とうとうその「限度・限界」にきます。体力的にも「限度・限界」があるでしょう。経済的にも、時間的にも、心理的にだって「限度・限界」はあるのです。「どうしてもしたくないなあ」「身体が動かないなあ」といった感じです。
多少の「限度・限界」は超えながら頑張ります。それでも突き当たる「限度・限界」です。それを「大きく」「連続的に」超えることはできません。親がつぶれてしまいます。
親はどう見られようが、どう言われようが、この時の諸君にとって一番大事な人です。とりわけ「お母さん」はそうです。食事のことで無理な要求を出す諸君もおります。帰ってくるたびに夜中の長時間ドライブに「連れて行け」と要求する諸君もおります。次々と高価なものを要求する諸君もおります。
皆ギリギリのところから出る要求です。苦しさの必死の叫びです。それはそれで分っているのですが、「何とかしてあげたい」と思うのですが、もうとりあえず自分の、自分たちのどうしようもない「限度・限界」にきました。能力の限界です。つぶれる寸前です。その時は降参しましょう。
「連れて行ってあげたいけれど、ゴメン。今日はとっても疲れちゃって。明日頑張ってどこかへドライブに連れて行くから」「もうむちゃくちゃ眠たいの。ちょっと寝かせて」。
時間的なこと、金銭的なことは具体的に数字としてハッキリしています。ここを超えたら身体が、家計が破綻(はたん)するということが数量的にはっきりしております。
我が子のものすごい辛さは親には感じられますから、出される「限度・限界」はギリギリのものです。「サバを読んでいい加減に」はダメでしょう。あくまでもギリギリの「限度・限界」です。
「子どもがそんなもの欲しがるのはおかしい」はダメなのです。世間の常識で、善悪判断の基準で、ものを言うのはまったくダメなのです。あくまでも自分の、自分たちの「限度・限界」として子どもに伝えることです。
「限度・限界」は変化します。ふくらんでいきます。親の容量が増していくと言ってもいいでしょうか。前にも触れましたが、僕らはこの仕事をする中で、見事な親に何人も出逢ってきました。その許容量を増していった方々です。とても僕らでは真似の出来ない人たちです。
苦しんでいる中2の息子さんのたっての要求で、高級自動車「ソアラー」を買ったご両親、全てを自分の息子に付き合い、今もって借地借家住まいのご夫婦。
世間一般の冷ややかな目から見れば、「とんでもない甘えさせ」と映ることばかりです。その誤解もあえて踏まえたまま、そこまで付き合った方たちが大勢おります。「限度・限界」は訓練の中で膨らんでいくのです。これこそ親の本当の意味での「実力」だと僕は思います。
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のぞみ学園
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